INTERVIEW

語り継がれるHUBC
02.ボート一筋 常勝の整調

第2回は、水垣和敏さんです。

【水垣和敏さんプロフィール】

氏名水垣和敏(みずがきかずとし)
生年月日1923年(大正12年)1月24日
出生地兵庫・豊岡
出身高校兵庫県立豊岡中学校(現豊岡高校)
入学年1941年(昭和16年)(専門部入学)
卒業年1943年(昭和18年)(戦争により繰り上げ卒業)
クラス担任上原専禄先生
HCSH組
勤務先三菱商事
主なポジション整調

平成20年4月に日本ボート協会の正会員(学識経験者)
平成20年6月から現在にわたり、名誉顧問。


【大学でボートをやるようになったきっかけ】

 高身長で体格が良かったこともあり、クラチャンでクラスの代表選手に選ばれた。部活はまずバレー部に入ったが、ラグビー部に引き抜かれたのち、ボート部とも取り合いになった。結局ボート部に入った。当時は、すべての運動部内でHCSという組分けがされていた。当時予科と専門部の選ばれたメンバーで競争をし、今までフィックスしか乗れなかったが、初めてクリーンカーエイトに乗り、言問橋から艇庫までのレースを行い、大差で勝利し正式にボート部員となった。

【当時のボート部】

 2年までは国立の中和寮、3年からは向島寮で生活をしていて、女性はいなかった。通常は通いで試合の練習はコーチから午後3時までに集合といわれ、勉強は午前中で切り上げて、急いで向島に向かった。一分でも遅刻をすると共同責任で罰せられバック台300本が科せられ苦しかった。試合前には合宿することになり禁酒、禁煙、禁欲であった。練習中は向島の東武鉄橋と白髭橋の間で、300m程度のショートピース(タイムトライアル)に主力を置いた。午後9時に消灯すると、静かになり何もできなくなった。午前5時半頃起き、大学へ行く前に練習して行くスタイルは現在の学生と変わらない。食事については、世話をしてくれるお世話さんがいた。部員には漕手とバックマンがおり、バックマンは会社を回って資金を集めたり、ご飯を炊いたりするなどしていた。大会の後には先輩OBからビールが差し入れられ、ビールが飲み放題だったこともあった。

【水垣さんのボート部での活動】

 整調であり、部の中でも中心に立つような存在だった。強運の持ち主で、自分が出る大会では必ず勝利を収めたというほどである。昭和18年HCS大会のH組第一選手に選ばれ優勝した。

【ボート部時代の思い出】

 全日本選手権大会の時、早稲田の稲門会を最後の100mで抜き奇跡的に逆転勝利したのが思い出である。稲門会はエイトで優勝するようなチームであり、余裕を持って漕いでいたところを最後に一気に抜いて専門部魂を見せつけた。その際のクルーは主に1年生で構成され、2年生は水垣さんのみだった。ピッチは40まで出て、一橋ボート部の伝家の宝刀と呼ばれるスパートを見せつけた。

【ボート以外の学生生活】

 クラスは上原専禄先生担当のクラスであった。ゼミは会計学を専攻していたが、ボートに打ち込んでいて、先生の名前は覚えていない。昭和16年4月に専門部入学、19年4月に卒業予定だったが戦時中のため半年繰り上がり18年9月に卒業した。

【会社勤めとボート】

 卒業後、三菱艇庫の世話になったので三菱商事に入社し、経理部で活躍した。しかし昭和19年1月関東軍に入隊することになり、門司に集結した。20年5月本土決戦が予想され北支満州から帰国した。戦後三菱商事に戻り経理をしていたが、財閥解体が行われ勤務先は極東商事東京支部となった。のちに極東商事は不二商事となり、昭和27年大合併をし、新三菱商事となった。解体前に三菱商事幹部の寺尾一郎さんにボート部の再建を命ぜられたができなかった。
 当時、巣鴨に三菱の思斎寮があり、ここで6年間、独身生活を送ったことが思い出深い。私の第二の故郷というべきところで、三菱各社の精鋭が30人生活し、お互い切磋琢磨した。毎年記念祭が行われていたけれども新嘗祭がなくなって、今は十一月第2木曜日にみんなで集まっている。三菱のボート大会のイベントは寮の東西対抗であったらしく私が指導した。
 当時は「オール三菱」という三菱各社のレースで、私は三菱商事クルーのキャプテンとして活躍した。戦後しばらくはなかったが、現在も後輩が元気でやっている様子。55歳で定年退職した。

【定年退職後のボートとの関わり】

 日本漕艇協会(現在の日本ボート協会)の理事や日本オアズマンクラブの理事長として多くの後輩の指導やボート普及にあたった。2015年のお花見レガッタの中で行われた慰霊祭では歴代最年長漕手として、整調でレースに参加した。現在もジムで体を鍛えており自信があったが、腰を痛めてしまい自身の引退レースとなった。
 
〇日本漕艇協会理事
 定年後すぐ日本漕艇協会の理事に選ばれる。初めは普及担当で、特に高校生の日本代表選手を世界選手権大会に連れていく仕事であった。1980年から3年間、ブルガリア・イタリア・フランス・インドなどの大会を回った。しかし日本は弱く、インドの大会で、期待はずれで負けたので普及部長の職を解かれた。漕艇協会の理事を15年間にわたって行い、平成5年に次にバトンタッチをした。その間に隅田川ローイングクラブで墨田区の中学生のボートのコーチをして中学生大会でたびたび優勝までもこぎつけた。
 
〇日本オアズマンクラブ
 オアズマンクラブはボートで世界選手権に出た人しか入れなかったが、前理事長がその規則を改定し、会員2人の推薦さえあれば入会できるクラブとなり、今日のような盛況を保っている。私は理事長として12年間務め全国のボートマン240人の世話や運営管理画などを行い現在は顧問として籍を置いている。

【ボート部が人生にどんな影響を与えたか】

 ボートは私の人生。少々苦しくても我慢できた。ボートで活躍できたのは一橋の中和寮と三菱の思斎寮で人間がつくられたといっても過言でなく、心の友達を作ることもでき大いに感謝している現役時代、毎日規律正しく生活していたので、現在でも6時半に起き、毎朝同じものを食べ、医者にも驚かれるほど内臓は健康である。今でも元気なのはすべてボート部で鍛えたおかげである。自分はボートに関して満足しているので、後は皆様の活躍を見せてもらうのが楽しみである。

【現役部員へのメッセージ】

 Sincerity (自分に正直に)、Uniformity(統一性・目標を一つに)、Wildness(有酸素運動中に蓄えて、最後のスパートをかける。火事場の馬鹿力)を大切に。
 自分の力がどれくらいあるかを常に練習で意識しないと、レースでは一生懸命できない。
 技術的なアドバイスとしては、ソフトにつかんで水を逃がさない、船がゆるまないうちに漕ぐ、力が分散しないように前を向いて肩を使って漕ぐ、うまくリズムにのせる、整調ペアはリズムを作るのに専念し全力で漕がない、などである
 「決して苦労して漕ぐな、自分のために、楽しんで漕げ。」

《お話をうかがっての感想》

 まず、92歳にもかかわらず、ジムに通われているほどお元気なことに驚いた。水垣さんのボートが本当に好きだという気持ちがお話から凄く伝わってきた。「一橋ボート部 100年の歩み」によると、水垣さんが活躍されていた昭和18年頃は、戦時中に伴う部の財政の逼迫や学徒動員などの影響で大会も中止に追い込まれるような状況であり、ボートに打ち込む余裕のある学生の数も減っていた。しかし水垣さんは実家からの仕送りもあり、特別食糧にも困らなかったようで、戦時体験をあまり語られなかった。何よりも学生時代から現在までも、「ボート一筋」の貴重なお話をお聞きすることができた。奥様の良久(らく)さんも、趣味が本当にボートしかなく、こんなに一途に一つのことを楽しめるのは幸せな人生だとおっしゃっていた。

水垣先輩、ありがとうございました。
(文責:室井智絵)