INTERVIEW

語り継がれるHUBC
03.強い一橋 専チャンがいた

第3回は、昭和23年卒の大塚秀二さんです。


 
 

【大塚秀二さんプロフィール】

氏名大塚秀二(おおつか ひでじ)
生年月日1926年(大正15年)3月25日
出身高校旧制東京府立第三商業学校(現 都立第三商業高等学校)
予科入学年1944年(昭和19年)東京商科大学専門部
本科卒業年1948年(昭和23年)
HCSH組
勤務先林兼水産工業(株)→墨水産業(株)→テクノ産業(株)
主なポジション整調

【大学でボートをやるようになったきっかけ(クラチャン)】

 昭和19年東京商大専門部に入学して、最初にボートに出会ったのはクラスチャン。入学後まもなく校内行事としてのクラスチャンの説明があり、級幹事に勧誘されて漕いだのがきっかけ。クラスごとクルーの編成が行われ、HCSの組み分けは1組がH、2組がC、3組がS、4組がH、教員養成所がCという形で分けられていた。
 専門部がある国立で授業を受けて、練習は昼休みの時間、部室で大柄な上級生に囲まれ、怒号の下で、腹筋強化のため、バック台(注)20〜50本を行った。午後は毎日、向島の艇庫まで2時間をかけて漕艇練習のため通った。中央線の電車が15分に1本しかないため駆け足で向かった。中央線で神田まで行き、地下鉄銀座線に乗り換え浅草で降りる。雷門から吾妻橋をわたって、土手を2qくらい走ったところに向島艇庫がある。遅刻するとバック台20本の罰が課された。
 練習は厳しく各組とも脱落者が多く、級幹事はクルーの編成に大変苦労した。艇(ふね)はフィックスと呼ばれる6人乗りの固定席艇で、カッターの様に重量があり、オールもとても重く、腹筋が必要でバック台を使い練習するため、体が突っ張って朝起きられないほどであった。加えて向島艇庫は地盤沈下の為、艇の出し入れに大変苦労した。志願して漕いでいるものは少数で、ほとんどの人がいやいや漕いでいた。
 戦前はクラスチャン終了後、毎年予科と専門部とのエイトでの対抗戦が行われたが、昭和19年は戦争末期の為中止となった。対抗戦の成績は専門部の全勝が記録されている。
 
(注)バック台とは、いまはエルゴメーターに置き換わっている当時の練習台

【戦争時の状況と私】

 三鷹にある中島飛行機の工場がB29の爆撃にあい、工場の一部を昭和19年に兼松講堂と本館の一部に移し旋盤工場として飛行機の部品を作っていた。我々学生も動員され見習い工として24時間交代の作業に従事した。(学内で部品作りが行われているという)情報が米軍に洩れたかはわからないが、米軍空母より艦載機が来襲し図書館正面時計台へ向かって数百発の機銃を発射した。当時私は図書館2階に居たがものすごい衝撃であった。ほかにも数人が在室中だったが幸い怪我人は出なかった。弾痕は図書館の壁に、数十カ所残ったが、修理し、今はその跡はない。
 当時(昭和19〜20年)、学部校舎は現在の西校舎、専門部校舎は現在の東校舎で、学部学生は殆ど兵役の為、皆無の状態で、専門部の授業は学部校舎で行われていた。当然専門部学生も毎日何人かが学園を去り兵役に服する毎日であった。私も当時の特別甲種幹部候補生を志願し兵役に備えたが、合格発表前に兵役入営通知を受け初年兵として、昭和20年6月に千葉県佐倉の歩兵連隊へ二等兵として入営した。その後部隊は千葉県館山へ移動し、米軍の本土上陸進攻に備え連日、酷暑の中、砂浜に穴を掘り、爆薬を背負い、米戦車が来たら飛び出して自爆する訓練を毎日行っていた。訓練は過酷で、死ぬとか生きるとか考える余裕すらなく、上官に言われるままに動いていた。食料事情も悪く、食事は米がないため、コウリャンをたいて塩にぎりにして、竹筒で塩水を飲んだ。そのため、みな下痢をした。1週間で10s減るほどであった。上官は厳しく、やたら殴ってきた。昭20年7月、特別甲種幹部候補生試験の合格通知が届き、豊橋の予備士官学校に移った。士官学校では風呂は毎日で米も食べられた。その差は「月とスッポン」だった。しかし、空襲により士官学校も焼失、学校は21年8月千葉県津田沼へ移り、8月15日、士官学校営庭で戦争終結の玉音放送を聞き、8月17日に復員した。

【戦争後のボート部】

 戦争が終わった後、先輩も学生も相次いで復員し向島艇庫も軍服姿で賑わい、活動を再開した。終戦の翌年、関東学生選手権レガッタが隅田川の白髭橋〜言問橋間2000m-コースで行われた。当時は各学校とも、艇庫や合宿所が戦争で焼失し、出漕クルーも少なく、商大、東大、早稲田、慶応、明治等で行われた。このレースには商大は対抗エイト1隻、予科、専門部はフォア各1隻を出漕した。専門部艇(玄武)はレースコースの境界を仕切るリミットフラグの櫓(やぐら)に衝突して敗退、予科は決勝で敗れた。対抗エイトはラスト500mで東大に抜かれ2挺身差で決勝で敗れた。隅田川でのレースは流れがあるため(上、下潮)、レースは潮止まりか、又は順潮汐で行われた。またコース中には洗い場とか鐘ヶ淵などで特別な潮流があり、コックスの操舵技術が問われた。
 昭和21年インターカレッジ敗退により、専チャン(専門部ボート部の別名)の意識が高まった。昭和22年の全日本選手権出漕が決まり、エイトクルーの編成に入ったが、全一橋のインターカレッジ対校クルー編成のため、全一橋端艇部委員長により漕手4名(エイト2名、フォア2名)の供出を求められ、専門部エイトクルーの編成には大変苦労した。幸い昭和22年インターカレッジ対校クルーはエイト・フォア共々優勝を果たした。
 昭和22年の全日本選手権では、専門部エイトが、京都大と並べたが、川の流れで船がはらんでしまい敗退した。その後、全国高専レース大会では早稲田が棄権し、専門部と予科のレースになり、専門部エイトが優勝した。
 当時ボートをやっていたのは、現在の一橋のほかには明治、日大、東京経済、早稲田、慶応、東大、京大くらい。スタートのピッチは42~43、コンスタントは30~32、スパートが35~36くらいであり、今とはレベルがまったく違っていた。

【ボート部時代の思い出】

 当時向島艇庫は隅田川沿いで観覧バルコニーを備えた鉄筋コンクリート3階建ての偉容を誇った合宿所であった。合宿は2〜10月位まで期間として8ヶ月程度、2・3階の大部屋(約40畳位?)でクルーが一緒に生活を送った。当時浴室の設備はなく、練習後は近くの銭湯に毎日通った。
 練習は毎日朝から夕方まで、赤羽水門〜永代橋間の水路で行った当時専門部クルーの練習量は隅田川随一と言われた。
 合宿生活で最も苦労したのは食料であった。昭和21〜22年は戦争直後で、食糧事情が極めて悪く、一般家庭でも買い出し等で日々の生活を送っていた。合宿中は米の配給もなく時間的にも経済的にも闇米の買い出しも出来ず、米軍放出のトウモロコシ(動物のえさと思う)を挽いた粉のみであった。その配給量も三食(朝・昼・夕)をまかなうには少なく、不足分は向島花柳界の芸妓置屋より廃棄分をもらい補った。従って合宿中は殆ど米飯を食べず、食塩で味付けしたトウモロコシのスイトン又はパンで通した。艇庫の2階が食堂であり、「ヨーイロウ」の掛け声で、競ってスイトンを食べた。スイトンは熱かったので猫舌の人は十分食べられなかった。
 ロングの練習の時は朝の5時に起きて6時に船台に艇を出し、トウモロコシの粉を水で溶いたものを焼いて作ったパンと、水を入れた大きなやかんを積んで出漕した。赤羽水門まで来ると、積んだ1個のパンとやかんの水を9人で分け、朝食として食べた。米飯を食べたのはレース当日のみと記憶している。当時は先輩より十分な支援を受けられる情況でもなかった。従って昭和22年全日本レガッタ出漕の専門部クルーの体格は平均身長169p平均体重56sと記憶している。

【一橋ボート部の強さ】

 私は一橋ボート部の強さを、@,H・C・S競漕に始まる校技のスポーツA専門部クルーと対校クルーの対抗意識による切磋琢磨B四神会、特にコーチ陣の体制 と思う。特に、一橋のボートが強くなったのは、専門部ボート(専チャン)が強かったから。専門部と対校の選手で切磋琢磨したのがよかったのだと思う。戦前戦中は商大では対校選手が最優先で、使用艇、オール等総てが対校、次いで予科、専門部の順であり、特に戦中戦後は艇、オール等の新調もなく用具には非常に苦労した。私は専門部の主将を務めていた。インカレは一校一杯なので、対校エイトは学部4人・専門部2人・予科2人の全一橋チームだった。

【卒業後の人生とボート部で得たこと】

 自分がいないと専門部エイトの編成ができなくなるというので、留年した。授業は1回も出なかった。体育も出ず怒られた。1年後の卒業も厳しかったが、ボート部の仲間が専門部長に掛け合って、1ヶ月遅れで卒業した。しかし就職先がなく、国府台高等女学校で1年間先生をして、ソロバンを教えた。その後、大洋漁業の関係会社、林兼水産に入る。社長が一橋の人であり、管理職もみんな一橋であった。10年ほど勤めて辞めて、窒素グループの墨水産業に入る。そこでは管理営業をやった。昭和50年から墨水交易の社長をやっていた。昭和60年に辞めて、テクノ産業という水処理関係の会社を立ち上げた。一橋の関係では、大学のクーリングタワーや如水会館の空調も手掛けたし。艇庫に機材等も提供した。85歳で引退した。
 ボート部の生活は苦労が多い毎日だったが、ともに苦しみ抜いて来たクルーの絆は強く、卒業後も生涯の友として交友が続いた。しかし相次いで鬼籍に入り今は2名となった。勉強は社会に出てからもできるが、ボート部生活で得難い友人を得られた。

【現在のボート部へ】

 東商戦をみると、いまのボート部のオール捌きは見ていて気持ちがいい。すごいオールをひく。漕ぐスピードが速い。いい漕ぎ方をしている。トレーニングのたまものと思う。一橋はボートしかない。校技だと思う。大事にしてほしい。




【感想】

 戦後という最も過酷な時代のボート部に関して、貴重なお話を聞かせていただいた。お米が食べられないほどの厳しい食料状況で、ボートを続けることはどれほど大変だったか、当時のエピソードから窺い知ることができた。お話しの中でひときわ印象的であったのが、大塚さんの「専門部」への思い入れである。厳しい生活を共に乗り越えた専門部のクルーとの絆は、その後の人生においても大切なものだったとおっしゃっていた。

大塚先輩、ありがとうございました。
(文責:佐田瑞季)