INTERVIEW

語り継がれるHUBC
04.リベラル一橋 燃える東大戦

第4回は、昭和23年卒の浜林正夫さんです。


 
 

【浜林正夫さんプロフィール】

氏名浜林正夫(はまばやし まさお)
生年月日1925年12月25日
出生地北海道小樽市
出身高校道庁立小樽中学校
予科入学年1943年(昭和18年)
卒業年1948年(昭和23年)
ゼミ村松恒一郎
HCSS組
勤務先小樽経済専門学校→小樽商科大学→東京教育大学文学部→一橋大学経済学部→千葉県八千代大学(現秀明大学)

【ボート部に入ったきっかけ】

 入学時小平の講堂で各部が勧誘をしていたが、ボート部には背の高い人が勧誘された。そこで声を掛けられたのが、私にとってのボート部の始まりだった。父親には、大学とボート部どちらに入ったのかと怒られた。予科と別に専門部があり、予科と専門部の対抗戦にも出てしばらく漕いではいたが、運動のセンスがなく主に裏方の仕事に回っていた。

【当時の大学と戦時体制】

 1943年当時、大学には予科と本科があった。予科2年本科3年で5学年あり、予科1年は50人が6クラス、全部で300人いた。クラスは語学により分けられ、ドイツ語3クラス、フランス語1クラス、中国語1クラスであった。戦争に伴い予科3年が2年に短縮され、そのうち1年は勤労動員に出され、農家を援助(援農)したり、海軍の弾薬を軍艦に運搬したりするなどの様々な仕事に駆り出された。このため、予科では正味1年しか勉強しなかった。1945年には、本科に入ってすぐの4月から北海道の北見に援農にだされ、そこから7月に旭川の歩兵連隊に入隊し、小型の爆弾を抱えて戦車に飛び込むという訓練をしていた。生きて帰ってこいと言われていたが、実質的には自爆訓練であった。他にも無線通信の訓練などがあった。
 一橋には自由主義・リベラルな雰囲気があった。当時の一橋は強制全寮制だったが寮の雰囲気はかなり自由で、大学をバカにする者も多く各自好きな勉強をしていた。部屋長は大学の勉強なんかするなと言い、哲学を勉強させられたこともあった。見つかったら警察行きだったが、押し入れの布団の下に「資本論」を隠してこっそりと読んでいる者もいた。学徒出陣の出陣式の際には、そんなバカなところに行くなと言われた。
 一橋大学には、戦時中に弾圧されていた二人の教授がいた。一人は大塚金之助先生で、戦時中に警察に捕まり職務追放を受けたが、戦後解除されて大々的に歓迎集会が行われた。もう一人は高島善哉先生で、マルクス翻訳で有名な方だったが警察に呼ばれてテーマを変えるよう強制され、アダム・スミス研究に転向された。

【当時のボート部と私】

 本科1・2年のとき私は小平寮に住んでいたが、ボート部の世話をするために最後3年目は向島艇庫に住み、事務局長となって資金集めや買い出しをしていた。事務係は2人いて、先輩のもとを回って頭を下げ、寄付金を集めることが主な仕事だった。苦しい状況だったが先輩は「もっと強くなれ」と応援してくれる人が多かった。一人何千円かは寄付してくれて、銀座でご馳走をしてもらったこともあった。逆に、「こんなことをせずに勉強しろ」と叱られることもあった。他には食糧不足の中での食糧確保、部内のトラブルの収束などの雑用業務をしていた。
 向島艇庫から国立に行くのはとても大変で、だいたい大学に着くとお昼頃になっており、昼休みに知り合いの友人に授業の情報を聞いて帰ると夕方になっていた。部員は全部で約50〜60人いた。漕手は大部屋でごろ寝していたが、やはりあまり大学へは行ってはいなかった。当時もボート部は一橋の運動部の中でも強く有名だったので、他の部からの僻みのようなものを感じることもあった。
 艇庫ではまかないさんを雇っており料理を作ってくれていたが、配給制の中でタンパク質はほとんど食べられなかった。ボート部員の食事は配給された食糧だけでは到底足りなかったが、先輩の中に闇商売をやっている人がいたため、食糧面での面倒を見てくれていた。世間的にも闇米を食べている人は多かった。それでも食糧不足は深刻で、いかにして確保するかが勝負だった。艇庫での1年間の生活は楽しく、一緒に暮らしていた仲間との思い出も多い。
 私は最初から漕手は諦めていたが、ボート部の伝統的な考え方が好きだった。東商戦に代表される東大に対するライバル意識や、官僚主義に対する反発である。東商戦では相手があまり強くないこともあり時々勝っていたが、その後早稲田と戦うようになって早稲田の強さを感じた。インカレでは相手があまりはっきりしていなかったが、東商戦では勝たなくてはいけない、という気持ちが強く、東大に対する対抗心は一つの伝統として強かった。東大ボート部との付き合いは全くなかった。
 戦争後の学内の雰囲気は共産党の存在感が大変大きかった。そうした世間の流れに対し私は反発心をずっと抱いており、官僚や当時の共産党は嫌いだった。リベラル派と官僚主義のぶつかりあいが、東商戦における対抗心の中の深層心理にあるのかもしれない。

【卒業後】

 父親は小樽高商の教師でリベラル派だったのだが、せっかく大学に入れてやったのにボートばかりやっているのか、とボートに対して批判的であった。父親の後を継ぐため自分も教師になることになったが、一橋のゼミの推薦状が必要であることが分かり、アメリカの独占資本の成立についての卒論を急いで書いた。卒業後すぐ小樽高商の教員に採用され、一橋に内地留学という形になりそこから本格的に勉強を始めた。生徒にアメリカについて講義をしていたが、水田洋先輩にヨーロッパの方が底が深いのでそちらを研究するべきだというアドバイスを受けて、イギリスの研究を始めた。近年5000冊にも及ぶ本を埼玉県のある大学に寄付したが、今になって寄付したことを後悔している本もある。
 昭和61年から63年にかけて端艇部長を務めたが、戸田にあまり行かなかったこともあり、あまり記憶には残っていない。

【ボート部が人生にどんな影響を与えたか】

 影響というほどではないが、ボートでどこが勝ったかということには今でも大変な関心がある。今では亡くなってしまった人が多いが、ボート部時代の交友関係は残った。特に2〜3年下の後輩とは長く付き合いが続き、時々飲みにいったりしていた。精神的には、行き詰ったときに何とかして乗り越えよう、頑張ろうというエネルギーや、負けず嫌いの精神をボート部で培えたのではないかと思う。寄付金集めの時にもねばり強さが必要であった。また、部活での「今年も頑張ったなあ」という気持ち・充実感が好きだった。頑張ったのは自分ではなく選手だが、それを支えたという満足感があった。

【現在のボート部へ】

 私が言われたことだが、「自分のテーマを持ちなさい」ということ。大学での勉強だけでなく、自分がこれをやりたいのだということをやって欲しい。それは勉強とは限らず、ボートをやりたいというなら大学で優等生になる必要はない。私のテーマはイギリス史であり、60年安保までに本を1冊書き、今もまだその続きを勉強している途中である。




【感想】

 マネージャーという同じ立場である私は、「頑張るのは選手だが、それを支えるために頑張る」ということ、そしてその充実感が好きだという浜林さんのお言葉にとても共感した。また、一橋のリベラルな雰囲気についてや闇ルートについてのお話など、なかなか聞くことのできない戦時中の貴重なお話を伺うことができた。浜林さんの教養や人生経験の深さに触れ、自分の人生についても考えさせられるようなインタビューだった。

浜林先輩、ありがとうございました。
(文責:室井智絵)