INTERVIEW

語り継がれるHUBC
06.エイト6番に誇り 全日本初制覇

第6回は、昭和24年卒の馬場 昭さんです。


 
 

【馬場 昭さんプロフィール】

氏名馬場 昭(ばば あきら)
生年月日1927年(昭和2年)3月20日
出生地福岡県久留米市
出身高校福岡県立中学明善校(現在の福岡県立明善高校)
入学年1946年(昭和21年)(東京商科大学専門部)
卒業年1949年(昭和24年)
ゼミ久武雅夫(数理経済学)
HCSH組
勤務先三井物産
主なポジションエイト6番

【大学でボートを始めたきっかけ】

 陸軍士官学校で終戦を迎え、その翌年の昭和21年4月に東京商科大学に入学。直後、H組のクルーでクラスチャンピオンシップに出漕することとなった(当時はボート部に入部するかに関係なく、HCSの3つのクラスに専門部、予科ともに振り分けられた)が、2位で敗退した。この悔しさが忘れられず、またボート部からも持前の体格と身長が買われ強い勧誘を受けていたこともあり、入部を決意した。その年の予科・専門部対校レースではエイトで出漕することとなり、悔しさをバネに勝利をおさめた。また、戦後食糧難の時代にあっても、ボート部に入れば「食べられる」という点も入部する決め手だった。

【ボート部での生活】

 当時艇庫は向島にあり、国立キャンパスまで電車賃もかかるほか、ゼミナールの先生であった久武雅夫氏(数理経済学を専攻)もボート部員に非常に寛容だったため、学校にはあまり行かなかった。他大の艇庫は戦争で焼失していたため、早稲田大学や慶應大学、専修大学等の学生とともに一橋の艇庫で生活していた。自分は対校エイトのクルーメンバーと艇庫の四階の一室で寝泊まりしていた。共に生活する他大の学生とは練習時間も一緒で、一橋の艇を借りて練習していた。現在と同様、午前と午後、二回に分けた練習が基本で、隅田公園でのランニングメニューもあった。上下関係は非常に厳しかったが、合宿所に戻ると先輩であってもあだ名で呼び合うなど、親しい間柄であった。自らは映画「ターザン」の主演俳優ワイズ・ミュラーに似ていたことから「ターザン」というあだ名で呼ばれていた。予科戦での対校クルーで出漕した昭和22年の全日本選手権では、一橋史上初となる優勝を果たした。持前の体格と地元九州の陸軍士官学校で鍛えていた経験もあったことから、エイトのエンジンといわれる六番に乗り続けた。対校エイトクルーとして、そして整調の力を後ろへ伝える上で大きな役割を持つ六番として三年間漕ぎ続けられたことは、今でも自分の誇りである。

【当時のボート部】

 戦後まもなくは配給制が機能不全に陥ったため、現役部員がOBの方々に食料や資金の援助をお願いしながら高粱飯や野菜などの食料を賄っていた。艇庫ではしばしば山盛りのキャベツが出されたことは今でも記憶に残っている。先輩方が差し入れに、当時では大変貴重なケーキをふるまってくれたこともあった。マネージャーで自分とは同期の畑弘恭氏(参考:第5回インタビュー)は、食料集めのために先輩方のもとを奔走し、食料の確保に尽力していた。彼の働きにより、ほとんどの食料は調達されていた。また、現役部員がボートで向島艇庫からボートで荒川まで漕ぎ続け、埼玉県川口市にある食料の検閲所の一歩手前で手配済みの食料をこっそり受け取ることも多かった。戦後も練習が続けられたのは、OBの方々の援助やマネージャーの尽力あってこそだった。このような多くの支援には本当に感謝しており、「先輩が後輩を助ける」というボート部の伝統精神の真髄を感じた。

【卒業後のボートとの繋がり】

 卒業後は第一通商(のちの三井物産)に入社したが、ボート部を引退した後でも「一橋大学ボート部」ということで国内外問わず取引先の信頼を得られたことが多かった。アメリカに赴任した際は、「一橋のボート部を卒業した」と話したことで取引先の信用を得られたこともあった。某他大ボート部を卒業した取引先の社長とは、ビジネスはさておき、ボートの話に花が咲いた。商社マン時代は、海外との取引の中で初期の合成樹脂を新しい素材として日本メーカーに売り込み、当時大ヒットしたおもちゃ「だっこちゃん」やビール瓶を入れるプラスチックケースなどの普及に貢献した。引退後は、自宅があった国立にある、一橋現役大生もお馴染みのロージナ茶房で陸軍士官学校で同期だった当時の店主の方に偶然遭遇したことをきっかけに、仕事場としてロージナ茶房の一角を借り、ロージナ茶房店主の伊藤さんの苗字を逆さまに読んだ、OTTI(オッティー)という会社名で会社を立ち上げた。当時まだ日本では珍しかった、衣服に写真を転写するプリント機を導入し、イベントTシャツ等の販売を行った。その珍しさから、テレビ局の取材もたびたびあるほど大きな話題を呼んだ。このような仕事ができたのも、アメリカのプリント機を商社時代に知ったことが大きかった。ボート部とのつながりは引退後も強かった。ボート部時代の同期の多くが現在の三井物産に入ったため、彼らとは特に親交があったほか、一年に1〜2回開かれる四神会主催の懇親会には必ず出席していた。自分が全日本選手権で優勝した経験から、このような催しにも気後れせず参加することができた。戸田公園に一橋艇庫が移っても、OBクルーを組み、戸田まで赴きしばしば漕いでいた。

【つらかったこと】

 練習はつらいものであったが、戦後の食糧難の中で多くの支援のもと、「たくさん食べられた」ということが、何よりの練習への原動力になった。

【ボート部の人生への影響】

 先輩方の多大な食料、資金を支援してもらった現役時代だけでなく、引退後も先輩方が築いたビジネスにおける信頼関係や外部からの一橋ボート部に対する評価が自分の仕事に多くの恩恵をもたらしたため、援助してくれた先輩方や、当時のマネージャーには「感謝」の一言に尽きる。そしてこのような組織の一員になったことを今でもとても誇りに思っている。また、ボート部生活で身についた自律心は、社会人になった後も、仕事などあらゆる場所で活きた。

【現役部員への思い】

 現役部員にはもっと頑張ってほしい。実績を残すことももちろん大切であるが、勝つために何が必要か考えること。ボートは一人ひとりが頑張れば勝てる競技ではない。練習以外の合宿生活でも心を一つに、人間関係を大切にしていってほしい。




【感想】

 「感謝」という言葉にあれほどの重みを感じたことはありませんでした。戦後の食糧難の中でも先輩方が常に助けてくれたこと、マネージャーであった畑さんが資金集めに先輩方のもとを奔走されたこと、卒業後も一橋ボート部という肩書が信頼を築くうえで力になったこと、これらに対する馬場さんの感謝の思いの強さに、日ごろ「感謝」しているつもりだった自分が恥ずかしくなるほどでした。「先輩が後輩を助ける」という伝統は、戦後まもない馬場さんの現役時代の先輩方の尽力や、助け合いの精神があったからこそ、伝統たりえたのではないでしょうか。 。

馬場先輩、ありがとうございました。
(文責:竜澤佑佳)