INTERVIEW

語り継がれるHUBC
12.舵取り決まった!東商戦初連覇

第12回は、瀬古政一さんです。瀬古さんは対校コックスとして東商戦勝利に貢献された方です。


 
 

【瀬古政一さんプロフィール】

氏名瀬古政一(せこまさいち)
生年月日1930年(昭和5年)7月3日
出身地東京都日本橋通三丁目(現・中央区)
出身高校入学時の名称:府立第三中学校 在学時の昭和18年に都立第三中学校に 卒業時は都立第三高等学校と名称が変わった(現・両国高校)
入学年1950年(昭和25年)
卒業年1954年(昭和29年)
学部経済学部
ゼミ井藤半弥ゼミ
HCSS組
勤務先大日電線(現・三菱電線工業)
端艇部での役職COX

【ボート部に入るまでの経緯】

 昭和25年に一橋大学に入学してから夏休みに入るまでは、ボート部との関りを持たず遊んで過ごしていたが、単位がもらえるという理由から参加した7月1日の富士登山で、ボート部2年の漕手が、一番早く登山したということがローカルの新聞記事に掲載されたのを見てボート部の存在を知った。その後、11月に開催されたHCS大会に参加した際に、当時のキャプテンだった三堀さんに初めてボート部の勧誘を受けた。三堀さん曰く、「コックスは、身体が小さくて、声が大きい人が適性」であり、HCS大会の時に声が大きいことを見抜かれたのではないかと思っている。勉強をするという目的で一橋大学に入学したこともあり、当初は母から反対されたが、三堀さんが日本橋の自宅まで母を口説きに来て下さった。三堀さんも私と同じく一人っ子だったということもあり、母は説得に参ったようであった。こうして、コックスとして入部することになった。

【コックスとしての役割】

 コックスというのは、船から降りたら雑用係のようなものだと思っている。朝は漕手と一緒に隅田川沿いをランニングし(当時はモーランと呼ばれていた)、朝ごはんを食べ、乗艇練習していたが、練習が終わってからが大変だった。船を洗うことからはじまり、漕手のおやつとなるコッペパンを向島艇庫近くのパン屋さんに買いに行ったり、漕手の足のマッサージやペニシリン注射をしたりしていた。ペニシリン注射は、当時の練習場所であった隅田川はゴミが多くとても汚かったので、シートでお尻が擦れて菌が繁殖してしまうことを防ぐ目的でやっていた。それ以外にも、食事の配膳など様々な雑用をやっており、漕手のように昼寝をする時間は全くなかったが、「コックスは漕がないのだから、これくらいのことはやるのは当たり前だ」と考えていたため、特に辛いと思ったことはなかった。
 減量に関してはそこまで辛い思いをした記憶はないが、レース前はお米を食べさせてもらえない代わりに、生卵をもらって食べていた。普段は55kgくらいであったが、レース前は50kgを切っていた。  コックスは、船の上ではリーダーシップをとるが、司令塔というよりあくまで見守る立場だった。当時は主な練習場所が隅田川で、航行する船の引き波が頻繁にあり、波に対して垂直に船の方向を変える必要があったため、「いかに船を安全に進められるように舵をきるか」ということを考えていた。隅田川は、コンクリートの堤防があったため引き波が何度も来て大変だったことを覚えている。また、エイトのコックスをしていると背骨にシートが当たってとても痛かった。そして、整調との連携も大切だった。練習中もレース中も、基本的には整調の言うことを聞いて、皆にクライしていた。3年の時の仲野先輩も、4年の時の長友さんも、穏やかだったため対立することもなく、協力してやれていたと思う。クルー個々人に対してクライをすることはなく、サイドごとにクライする程度だった。バウの人まで声を届けることを意識していたが、怒鳴り散らすようなことはしていなかった。
 コックス専門のコーチはいなかったが、2年生の全日本で付きフォアのコックスを務めた際、その時の整調であった1つ上の佐藤清先輩が舵の切り方などを教えてくださった。そのおかげもあって、舵の感覚や舵の微調整に関しては自信を持っていた。佐藤さんには、舵の切り方以外にもボートに関する様々なことを教えていただき、本当に感謝している。

【東商戦での活躍】

 対校エイトのコックスとして、第4回と第5回の東商戦に出場した。第4回の時は3年生であったが、4年生の対校コックスの先輩が本人の都合で辞めたので、途中から対校コックスとなった。同期のコックスは3名いたが、2年生の全日本で優勝した付きフォアでコックスを務めていたということもあり、私が選ばれたのではないかと思っている。この付きフォアには、同期の三藤(藤原さん、藤森さん、藤山さん)と佐藤清先輩が乗っており、この4人は東商戦のエイトのクルーでもあった。6840mのコースでの練習はあまりできなかったので、赤羽から荒川放水路(今の荒川の本流)、鐘ヶ淵の水門を通って練習をしていた。またその日の川の流れなどを確認するために、漕手が寝ている間にスカルで白髭橋から吾妻橋くらいまで、1kmくらい漕いでいた。
 第1回から3回の東商戦はすべて東大に負けていて、「東大には歯がたたない」とまで言われており4連敗するわけにはいかないという気持ちが強くあったので、第4回と第5回で連勝できたことは本当に嬉しかったし、誇りに思っている。当時の東商戦は、隅田川での6840mレースという長距離であったので、スタートが勝負だという気持ちで臨んだ。実際のレースでは、2回ともスタートが決まって東大をリードできたので、そこからは自分たちのペースで余裕を持って悠々と漕ぐことができた。スタートが決まった後は、いかに舵をうまくきるか、いつコンスタントにピッチを落とすかに集中していた。特に、コースの途中にある艇庫前のカーブでは、いかにブイギリギリのところで曲がって距離をロスしないようするかが大切であったが、ここで舵をうまく切ることができた。またコンスタントに落とすタイミングは、整調と相談しながら決めた。漕手の体力が持つように30-33くらいにピッチを落としつつ、強く漕ぐことが大切だと考えていたので、「落とす」ではなく「大きくいこう」「強くいこう」というクライをするようにしていた。その後も東大との距離を詰められることもなく、力走を入れる必要もないくらい余裕を持ってレースを進めることができ、ゴールの手前で勝利を確信した時、普段は涙を流すことはないが、うれし涙が出た。ゴールした時は立ち上がることはなかったものの、みんなで喜んで泣いていた。この東商戦に出場したメンバー同士では、引退後も東商戦の前日に両校の何人かで集まることがあった。
 2回とも大差をつけて勝利することができたのは、スタートが決まったからだと思う。東大がどちらかと言うと力強さを強みとしていたのに対して、一橋は伝統的に力強さというより、ユニフォーミティで勝つチームであり、その強みがスタートでも生かされていた。またバウペアの技術が高く、練習の初期からあまり船が曲がることがなかったことも要因かもしれない。  東商戦後は艇庫で打ち上げをした。一橋の艇庫は勝利に沸いていたが、東大の部員達は大会がおわるとすぐに船を出して練習しており、「全日本では絶対に一橋に負けない」という気迫を感じた。実際に東商戦では2回とも大差で勝ったにもかかわらず、全日本では負けてしまった。また、第4回の東商戦後に大学の教室で祝勝会があった際に、「コックスが下手だった」と言われ、思わず悔し涙が出た。しかし新聞記事ではほめられた。当時はボート部OBが新聞社に多く就職していたため、東商戦が朝日新聞のスポーツ記事に一面で取り上げられていた。特に高橋さんと中川さんという記者は好意的で、高橋さんにはコックスである私のラダーワークについて記事の中でほめていただき、とても嬉しかった。

【部員とのかかわり】

 「同じ釜の飯を食う仲」とも言うように、部員同士仲が良く上下関係もあまり厳しくなかった。一人っ子だったということもあり、皆でわいわい話したりするのはとても楽しかった。1つ上の栗原先輩はあだ名をつけるのがうまく、皆あだ名で呼びあっていた。私は、瀬古という二文字で呼びやすいらしく、あだ名で呼ばれることはあまりなかったが、「ブイ」というあだ名がついていた。また、同期の三藤に関しては、藤森さんは「ボンバ」、藤原さんは「バンビ」、藤山さんは「ザンバ」と呼ばれていた。  部員との思い出の一つに、銚子遠漕がある。遠漕ルートの途中であった江戸川と利根川の運河には水がなく、船を担いで渡ったことが強く印象に残っている。行きは川の流れに沿って下っていけばいいので楽だったが、帰りは上りだったので辛かった。だが、当時はあまり遠征に行くことがなかったので、唯一の遠征であった遠漕はとても楽しかった。  同期とは卒業後も集まることがあり、一つ上の先輩方の「墨新会」という集まりに倣って「赤櫂会」(せきようかい)という集まりを作って、対校選手ではない人もメンバーとした。だが実際によく集まっていたのは対校のメンバーであり、東さん、金子さん、藤森さん、藤山さん、長友さんの6人くらいでよく集まっていた。

【大学生活】

 ボートばかりやっていたので、大学には、ゼミや試験の時ぐらいしか行っていなかった。ただ、語学のクラスであるP組の仲は良く、今でも如水会館で毎月、第一と第三月曜日にP組会を開催、400回近く集まっている。みな優秀で記憶力がよいため、入学試験の話や語学の先生の話をしている時があるが、あまりついていけないことが多い。だが、同い年ということもあり話が弾んでおもしろい。

【会社勤めについて】

 対校選手の就職の面倒は畑先輩が見てくれて、私の場合は畑さんからの紹介で大日電線(現・三菱電線工業)に就職が決まった。ただ、本来であれば就職活動を始めるべきである全日本選手権大会後に、対校選手で那須高原に旅行に行ってしまい、畑さんに怒られたことを覚えている。
 大日電線はボート部の先輩である近藤さんがいらっしゃった会社で、築地にある勤務先に寄付金集めに行ったこともあり、馴染みのある会社だった。ただ、築地勤務だと思っていたら、本社のある尼崎勤務となったので少し驚いた。最初の4年間は尼崎の工場で経理を担当し、その後、東京で営業をした。また、昭和44年からの4年間は札幌で勤務していた。ちょうどこの頃が高度経済成長期かつ、札幌オリンピックの開催前だったため、札幌の景気が良く楽しく過ごしていた。札幌では、三菱系会社の札幌支店長が集める津久茂会という集まりに、ボート部に在籍していたという理由で若いながらも入れてもらった。当時は現在と異なり、電線メーカーは景気が良く、取引先もある程度固定化されていたため、仕事を苦痛に感じたことはあまりなかった。その後、昭和61年に神田にある中央電気工業に出向し、65歳まで働いた。

【ボート部に入ってよかったこと】

 コックスとして雑用をしていたことが多かったので、自然と気遣いができるようになったことはよかったと思う。特に家庭で妻と円滑な関係を築く際に役立った。また、雑用を苦に感じたことがなかったことは就職してからの仕事に取り組む姿勢にも影響したと感じている。そして、大学で何か一つ成し遂げたという経験や、卒業後も付き合いが続くような仲間が得られたことは本当によかったと思う。

【現在のボート部へ】

 お金のある私立大や実業団がボート部に力を入れている現在、人もお金も少ない一橋がそうした団体に勝つことは難しくなっていると思う。だからこそ、東商戦では東大に勝ってほしい。また、昔は「Row Out」の精神が身についており、練習の時から「死ぬ気で漕げ」「死ね」と言われ、コックスである私自身も漕手を「Row Out」まで持っていこうと思っていた。レースの時も、ゴールしたら倒れるくらいが当たり前という気持ちでやっていた。その頃と比較すると、今の一橋には気力が足りないように感じる。一橋は理工系の大学ではないのだから、理論ではなく気力で漕いでほしい。




【お話を聞いて】

 瀬古さんがコックスとして漕手のためにやっていたことの多さに驚き、また、そうした仕事を苦としなかった瀬古さんの心意気には感動させられました。コックスとしての仕事以外においても「辛いと思ったことはなかった」というお言葉を多く聞き、何事に対してもポジティブに取り組もうとする瀬古さんの姿勢は、私も参考にさせていただきたいと思いました。

瀬古先輩、ありがとうございました。(文責:緒方奏)