語り継がれるHUBC:11.遠漕メンバーで勝ち取った日本一

    第11回目は、S29卒の藤森久弘さんです。藤森先輩は、2年生の時に全日本選手権で舵手付きフォアに出漕し、優勝された方です。


     
     

    藤森久弘さんプロフィール

    氏名藤森久弘
    生年月日1932年(昭和7年)1月12日
    出身地長野県諏訪市
    出身高校長野県立岡谷南高校
    入学年1950年(昭和25年)
    卒業年1954年(昭和29年)
    学部経済学部
    ゼミ板垣與一ゼミ
    HCSC組
    勤務先三菱金属
    端艇部での役職フォア3番、エイト5番

    ボート部での印象深い思い出

     体格が良かったため、小平キャンパスでの勧誘でボート部に引っ張られた。同期はたくさん入部したが、対校メンバーに選ばれたのは私を含めて3人であった。その全員の名前に藤がついていたので「三藤」と呼ばれていた。私たちは、1年先輩で小田原でボートを経験していた佐藤清さんに漕ぎを教えてもらっていた。整調である佐藤さんを筆頭に、三藤のメンバーと、コックスで同期の瀬古政一さんで付きフォアを組んでいた。
     2年の夏、2泊3日の泊まりがけで、シェルで銚子遠漕を行ったことが非常に印象に残っている。他校に先駆けて行われた、戦後初めての遠漕である。目的地になかなか着かず大変だったが、5人のユニフォーミティーが断然良くなり、極めて有意義なものであった。遠漕は厳しい鍛錬だが、個人の漕ぎの癖がそれぞれある中、全体で上手くバランスをとるという意味ですごく良い練習であると思う。
     昭和26年夏、ともに遠漕を行った付きフォアのメンバーで全日本に出漕した。三藤の3人は漕ぎ始めて1年と少しであったのにもかかわらず、なんと優勝することができた。私は3番を漕いだ。1000mの時、土手でコーチが声をかけてくれたのを覚えている。レースはスムーズに進み、わりとあっけなく勝つことができた。まさか優勝するとは思っておらず、あまりに嬉しかったので、向島の写真館で記念に優勝の写真を撮ってもらった。現在も戸田艇庫の1階に飾られているものである。
     これ以降はエイトを漕いだが、3年・4年のときは決勝に進んでも優勝はできなかった。4年生のときは急に勢いをつけてきた東北大・東大に負け、3着となり悔しい思いをした。

    ボート部での1日の生活

     練習中心の日々を送っていた。しっかりと睡眠をとって朝食を食べ、体操をして、2時間程度漕ぎ、昼食をとり、午後もまた同じように練習をしていた。バック台(現在のエルゴメーター)の練習もあったが、単純すぎて面白みがなく、あまり好きではなかった。
     食べ物に関しては、戦後の食糧不足という程ではなかったが、今ほど贅沢な食事はできなかった。肉類は経済的な面からあまり多くは食べられなかった。白米はたくさん炊いて、どんぶり何杯も食べた。おかずは鯵や秋刀魚などの焼き魚や、たくあん・納豆が多く、生卵も時々あった。艇庫の食事は瀬古さんなどコックスを中心とするバックマンや、飯炊きのおばさんが準備してくれていた。
     練習は楽ではなく、体が疲れているので、空き時間もあまり外に出て遊んだりはしなかった。囲碁や読書、勉強などを行っていた。私はあまり勉強が好きではなかったので、囲碁を覚えていた。週に1日に休みの日があり、その日に酒を飲むことが部員の一番の楽しみであった。近くの下町の居酒屋で安い焼き魚などを食べながら、同期や先輩と一緒に日本酒を飲んだ。当時はあまりいいお酒はなく、合成酒などが多かった。おつまみは冷奴もあったが、選手にとっては頼りないものだった。浅草の神谷バーの電気ブランなども、よく飲んだものである。

    東商戦の思い出

     第4回・第5回東商戦に対校エイトの5番として出漕した。当時の東大は一橋の隣に艇庫があり、かなりレベルが高かったが一橋は負けなかった。良い競争相手であり、絶対に負けたくないという気持ちが強かった。東大のコーチも非常に評判が良かった。理系学部があるために、漕法の科学的な面では強かったように思う。
     東商戦では対校クルーの雰囲気は良く、皆同じ方向を向いて頑張っていた。私は5番を漕いだ。5番はエンジン担当であり、背が高かったので向いてはいたと思う。

    ボート部以外の学生生活

     レース前の数ヶ月に向島艇庫に泊まり込む以外は、中和寮の二人部屋に住んでいた。しかし、大学には、必修科目やゼミの時以外はあまり行かなかった。特に向島から国立は本当に遠く、他の運動部とは違ってボート部だけかなり離れていたので、不便だった。
     ゼミは国際経済学の板垣與一先生のところに所属していた。主な活動は原書を訳して、自分の考えをまとめるというものであったが、翻訳がすごく大変だった。ゼミもそこまで出席していなかったが、板垣先生は運動部の面倒見が良く、いつも大目に見てくれていたので助かっていた。

    お仕事について

     ボート部は就職の面で優遇されており、先輩の支援が手厚かった。畑弘一さんなどが斡旋してくれた。私が入社した三菱金属は、畑弘平さんが勤めていたこと、私は諏訪の出身であるが、副社長が諏訪中の出身だということで受けたところ、すぐにOKを貰えた。
     長く経理部門にいたが、それまで経理の勉強はしたことがなかった。入社当初は、銅やスズが出る兵庫の明延鉱山に行った。その後、新潟や大阪の精錬所など各地の工場を回っていたが、東京勤務が一番長かった。

    ボート部が人生にどんな影響を与えたか

     人との関係性に最も影響を与えたように思う。
    ボートは、一つの目的に向かってみんなで同じ動作をする・一緒に努力するという面で、人との関係をつくる上で非常に良いスポーツである。私も当初はあまりコミュニケーションが得意というわけではなかったが、ボート部に入ったことで良い影響があった。チームワークをつくるという点では仕事面でも役立ったのではないだろうか。さらに、就職においても、先輩である畑さんとのつながりがすごく役に立った。

    ボート部の現役部員へ

     今の現役部員の様子に関心があるため、東商戦には極力行くようにしている。全日本で決勝には是非出てほしい。
     ボートは人間関係を育むという面で、人間を一回り大きくする。それは人生にも良い影響を与える。団体競技においても個人の動きはバラバラであり、ボートほど一人ひとりの動きを合わせるスポーツはないだろう。やりたいことができるのが学生時代なので、やりたいことを好きにやってほしい。




    お話を聞いて

     2年生の時に全日本で優勝されたというエピソードにはとても驚きました。また、ボートは一見単純な動きのスポーツに見えますが、どの競技よりもお互いの動きを合わせ、統一を目指していく競技であるというお話にははっとさせられました。この団体に所属したことで、ボート部のつながり、そして4年間、人との関わりという面で学んだことは今後の糧にしていくことができるのだなと思いました。(室井智絵)

    藤森先輩、ありがとうございました。