- ・プロフィール
- ・大学でボートを始めたきっかけ
- ・当時のボート部
- ・第一回東商戦について
- ・ボート部以外の学生生活
- ・会社勤めについて
- ・卒業後のボート普及活動
- ・ボート部が人生にどのような影響を与えたか
- ・現役部員へのメッセージ
- ・ボート生活で心に残った言葉
- ・シートそれぞれの役割と適性-エイトの場合―
第7回は、昭和27年卒の行木 陽一さんです。
行木陽一さんプロフィール
氏名 | 行木 陽一(なめき よういち) |
生年月日 | 1928年(昭和3年)12月7日 |
出生地 | 東京都中央区東日本橋 |
出身高校 | 成城学園高校 |
入学年 | 1946年(昭和21年) |
卒業年 | 1952年(昭和27年) |
ゼミ | 増田四郎ゼミ |
HCS | H組 |
勤務先 | トーメン(現 豊田通商) |
主なポジション | バウ |
現在 | 四神会常任顧問 江戸川区ボート協会会長 兼 ジュニア育成主任コーチ |
大学でボートを始めたきっかけ
今は亡き下町育ちの母は娘のころ、隅田川沿いの山谷堀に立つ聖天様の塔によく上った。眼下には、大学のボート練習風景が見える。当時の隅田川は大学ボートの練習のメッカであった。対岸向島の艇庫から艇を出し入れしている大学選手たちを見下ろしながら、母は、将来結婚して息子を持つようになったら、大学に入れてボートを漕がせようと思ったそうである。そして私が生まれた。 端艇部への直接の入部動機は昭和21年、予科1年1組の時のHCS大会にH組で出たからである。当時はフィックス(固定席)で6人漕ぎ。隅田川で一か月ほど練習した。HCS大会に出て勝ったか、負けたか覚えていないが、コックスを入れて、7人全員がレース後、ボート部に入った。そのうち1人去り、2人去りして、最後まで残ったのは、私と昭和26年の対抗エイトで整調を漕いだ故矢島隆之輔の2人でした。私が大学の6年間、ボートに打ち込んで、遂にローイングの醍醐味を会得し得るまで続けられたのも、大伯父比企能成(東大ボートの大先輩)の影響を受けて、母が、比企先生の様にボートさえ漕いでいれば必ず人間として大成すると信じて陰に陽に励ましてくれたお陰である。
当時のボート部
1946年に入部し、予科3年と本科3年、計6年間漕いだ。部員数は20-30人程で、一年のうち半分くらいは合宿生活をしていた。終戦直後なので、戦時の風潮が残っていて、上下関係が厳しく、冗談に「一年違えば奴隷も同然」と言われる程であった。廊下で対校選手のキャプテンには立ち止まって敬礼した。 合宿には門限があり、間に合わなかった場合は固定席のバック台300本を課せられた。食事は芋・コウリャンがほとんどで、廃棄する豚の皮を肉屋から貰ってきて出し汁をとる事もあった。コッペパンも出たが、じゃんけんで競争するほどの人気だった。或る時、じゃんけんの前にコッペパンを口に入れて逃げて捕まる前に全部飲み込んだ部員には、「コッペ」というあだ名がついた。実家が両国橋の西側にあったので母と妹がよく両国橋の上から隅田川で練習中の我々の艇に籠にコッペパンをクルーの人数分だけ入れて吊るしてくれて、受け取る事もあった。橋の下を通ると時折「腹ぺらしー!」と橋の上から怒鳴られる事もあり、閉口した。 隅田川には東大と一橋の艇庫が並んでおり、裏の土手を降りたところに「堤湯」があった。通称土堤(どて)風呂という風呂屋で、練習後は東商早慶大クルーとも汗を流していた。文字通り呉越同舟であった。 戦後暫くは日本の外貨収支は赤字で、皮、ゴムなどの輸入品は制限されており革靴、ゴム運動靴の類は貴重品であった、当時の学生は普段は下駄ばきで登校していた、 合宿中便所の草履をはいて学校に行った者がいて「べんぞう」なるあだ名がついた、この人は後に大会社の社長になった。 昭和27年に戦後第1回のオリンピックが北欧ヘルシンキで開催されることになり、代表選考会で昭和26年の全日本での優勝クルーが行く事に決まり、決勝に一橋、東大、慶応が残り、オリンピック出場をかけて争った。この時私は最上級生でバウに乗り出漕したが、スタート直後で一艇身飛び出し、コックスの「栄冠、我にあり!」の声を聴きながら漕いでゆくうちにじりじり追いつかれて、1750メートルで東大、慶応に並ばれ、3着に終わった。結局この年は慶応大クルーが優勝し、オリンピックに行ったが、この時もまだ外貨事情が悪くエイトをフォアにして行った。
第一回東商戦について
東商戦の前身は、明治18年から東京高等商業学校・第一高等学校のレースが伝統的に行われていたが、流血惨事が起こるほど過熱してしまったので中止になった。戦後、東大と一橋のボートOBの飲み会で再開催の話が持ち上がり、実現したのが第一回商東戦である。その際、ただの2000mでは面白味がないということで、3200mの長距離レースとなった。 第1回は昭和24年8月28日に行われ、私は対校エイトの5番を漕いだ。170cm、60kg弱であったので対校選手の体格ではなかったが、戦後食糧難の時代にボートを漕ぐ人間はあまりおらず、当時如何にボート部員が不足していたかが判る。翌25年になると、対校選手の主力の3年生が皆おりてしまって、対校選手で残ったのは2年生の三堀正太郎君と私だけになった、仕方なく当時飯炊きをしていたマネージャーの佐藤和実君(後の一橋総監督)や、HCS第三選手(サード)の仲野実君、他の部(野球部、陸上競技部)から転向してきた栗原恒雄君,畑弘晃君を乗せて何とかエイトを編成した。自分と、キャプテンの三堀正太郎君以外は新人同様だった。対して東大側は、堀内浩太郎さんをはじめとして旧制高校で漕いできたベテラン揃いだったため、全く歯が立たず5艇身の差をつけられて負けてしまった。一橋はこれらの新人たちが育つ3年後まで東大には勝つことが出来なかった。 第1回は東武鉄橋から鐘ヶ淵までの3200mだったが、第3回はケンブリッジオックスフォード大レースをまね、4マイルクオーターの6800mにまで延長された。練習時には行き交う船の高波に乗るため時々止める。戸田のポンドで漕いでいる人には分からないかもしれないが、吃水の高い船の立てる高波をエイトが乗りきると真二つに折れることがあり、必ず一度止まって高波と平行にして波乗りをしなくてはならず練習中何回か止めることになる。 6800メートルを35のレイトで漕げば大体22分くらいだろうということで、ピッチ35で22分間漕ぐことにした、練習ではコックスの「パドル1000本!」の号令と同時に漕ぎ出すのであるが、このきつさは相当なものであった。私は第1回から第3回まで東商戦は3年負け続けてしまったが、息子の行木慎一(62年卒・現日本銀行考査役)が私の意志を継ぎ、昭和59年第36回東商戦で勝利してくれた時は本当に嬉しかった。それこそ「生きていて良かった」と思った。
ボート部以外の学生生活
ボート一筋の生活だったので、大学へはあまり行かなかったが、ゼミには出ていた。私は増田四郎先生(元学長)の下で「ヨーロッパ中世経済史」を学んだ、第一回ゼミナリステンの一人である。その関係で平成9年からの10年間、「しろう会」(増田ゼミOB会)の代表幹事を務めた。この会はその後増田先生のお弟子さんの山田欣吾名誉教授、さらにそのお弟子さんの大月康弘教授(現経済学部長)に受け継がれ、現在も毎年続いている。これは私が大学に残した足跡として自負している。 増田先生は東京商科大学から一橋大学へと名称が変わる過程で、一貫して変わらない「一橋の学問とは何か」を問い続けられ、立派な人間の生き方は何か、ということを考えさせることこそ大学本来の使命であると述べられていた。 先生の官舎は校域内にあり、ゼミはお宅で原書の輪読をしていた。非常にアットホームな雰囲気であり、ゼミ後にはすき焼きパーティーをやることもあった。 当日レポーターで勉強してこなかった学生は、一升瓶とねぎ等、すき焼きの材料を買い持参してきて、増田先生を囲んで飲み会に転じた。「コンパゼミ」のあだ名がついた。 ボートの練習の合間に向島の汁粉屋の二階で芸者さんに英語を教えた事もあった。向島は芸者町だったので、米軍と芸者さんの交流があり、その際に英語が必要だった。
会社勤めについて
ボート部に所属していたことは仕事面でも良い影響を与えた。卒業後、私は総合商社トーメン「現豊田通称」に入社、シンガポールに5年、ロンドンに2年駐在したが、商社のシンガポール駐在員は内地の顧客のアテンドが主要な業務で、一口に内地からの客の空港送迎を1000回すれば内地に帰れるといわれた。 シンガポールは中継地の為、真夜中の送迎が多く、文字通りの体力勝負であり、ボートで鍛えた体力が大いに役立った。 当時長男出産のため家内が現地の病院で入院中であったが、多忙のため病院に見舞いに行く時間がなくて、病院前を通過する際に車の警笛を鳴らして、家内が窓から手を振って無事を確かめ合ったこともあった。 ロンドン支店長としてロンドンに赴任した際、一橋ローイングクラブの経歴は、ボート発祥の地において仕事の面・生活の面で大いに役立った。イギリスの上流階級社会では、第一にボートローイング、次にホースライディング、三番目にバードウォッチングが趣味として主流だったので、「ボートを漕いでいた」と言うと取引先の社長との恰好の話題になった。
卒業後のボート普及活動
卒業式の日に共に戦ってきたキャプテンの三堀正太郎君に「俺たちはボートばかり漕いであまり勉強はしなかったなあ」と話したところ、「俺たちはボートを掴んできた」と言われた。その言葉に大いに納得した。そこから私のボート人生が始まった。 会社では仲間とボート部を創設して、男女クルーを指導した。昭和30年、指導した会社の女子クルーが全日本実業団レガッタで3位に入賞することが出来た。定年退職後は、東商早慶大のボート部OBとともに墨田区立中学生の指導を始めた。約十年間、隅田川で指導にあたった。平成13年、旧中川に移って地域の小中学生を中心にボート教室を開き、今に至っている。私のボート人生の集大成である。「地域の人々による地域の人々のためのボート協会」を組織し、毎週土日の午前中、中学生12人・小学生20人にボートローイングを指導している。多くの地域の人たち(主に子供たちの父兄であるが)にボランティアとしての協力を頂いている、コーチには一橋監督補佐、市来豊君、東大元監督、朝倉直樹さんにお願いしている。 指導して25年、今年(2016年)の全日本レガッタダブルスカールの種目で小学生から手塩にかけて指導してきた高校生が、社会人クルーを抑えて優勝した時は嬉しくて「生きていて良かった」と感じた。 指導理念は「子どもは国の宝。子供の未来は国の未来。大事に育てて将来国に役立つ人材をつくる」であり、挨拶や礼儀を重視している。場所は江戸川区の防災地域を借りており、艇は様々なクラブ、学校から中古を譲ってもらっている。昨年は一橋からもダブル中古を譲ってもらった。 旧中川は東京で一番安全にボート練習ができる、白鳥の舞う緑の自然豊かな川である。水位を調節するロックゲートと、荒川に繋がる木下川水門の間がポンドのようになっており、安全性や水面の安定がよく保たれている。高波禁止の看板が立つ、手漕ぎボート優先の川である。
ボート部が人生にどのような影響を与えたか
何といっても、東商戦の3200m-6800m長距離のレースの練習中の辛さは筆舌に尽くせぬものがあった。その時はなぜボート部に入ってしまったのだろうか、とも思ったが、あの時の肉体的な辛抱が、以後の長い人生においていかに役に立ったかは計り知れない。隅田川を毎日、上り下りの30km以上を漕ぐ練習は誠に辛く、6800メートルは距離にして、下からの場合、永代橋からスタートして清州橋、新大橋、両国橋、蔵前橋、厩橋、駒形橋、吾妻橋、東武鉄橋、言問橋、白鬚橋から少し下の大倉別邸までであった。つらいので目をつぶって漕いでいた。 途中、ライオンの工場が川の近くにあったため、歯磨き粉の臭いがした。吾妻橋では、アサヒビールのホップの臭いをかいだ。さらに東武鉄橋を走る電車の音で今はどこを漕いでいるかを推測した。 会社人生は順風満帆の時ばかりでなく、ストレスが溜まり、挫折の経験もあった。特に商社の営業部長の時には「これが旨くゆかなければ俺は首だな」というような事案が数えたら5件もあった。そんな時に、「ボートであれだけ苦しい思いを乗り越えられたのだから、これくらいの辛抱はたいしたことはない」と自分に言い聞かせて、頑張る事が出来た。仕事があまりに辛いときは、銀座で仕事の帰りに一緒に漕いだ艇友たちと飲んで、タクシーを飛ばして隅田川に赴き、月光に映える川を前にして懐かしい川の臭いを嗅いで、「長煙遠く」を一緒に歌い、「明日も頑張ろう!」とお互いを鼓舞した。 また、私は予科チャンの昭和26年H組キャプテンをしていたが、HCS大会を前にして、誰を何番に乗せるかを常に考えなくてはならず、これが会社の人材の長所を生かした役割分担に大いに役立った。 卒業後、OB連中と集まってエイトを漕いでステーブルバランスである程度の艇速を味わいながら、艇友の肩越しに白雲が去来しているのを眺めてフォワードをしている時は「生きていて良かった」と感じたものである。
現役部員へのメッセージ
◎足跡を印せよ:自分の立ち位置を明確に理解して、その場その場で何でもよいから世のため人の為に「俺は、私はこういうことをやった、残してきた」と言える様な爪痕を残しなさい。 前四神会会長の丸子博之さんは野村雅彦氏を、部外から一橋のヘッドコーチに招聘し、すべてを任せて東商戦8連勝の基礎を創った。現会長の畠山雄三郎氏は隅田川では漕いでいないにもかかわらず、隅田川べりに「隅田川ボート記念碑」を建設する委員として尽力しました。また、石村さんとも話し合い、私どもボートの「語り部」に話をきき、それを記録として残す事を始めたのも彼の発案です。
◎ローイングの醍醐味:私どもの漕いでいた頃は赤羽一発(墨田の艇庫を出て荒川から赤羽を回り、隅田川に帰ってくる36kmを漕ぐメニュー)の後、疲れ切ってフォワードで力を完全に抜き、ひたすら船底を流れる水の音を聞きながら無念夢想(dreaming forward)で漕いでいた。このようにして艇速を味わいながら漕ぐ時こそが、ボートの醍醐味である。これは「Let your boat run under your seat.」という言葉で表現される(ボートの神様ヘアバーン著『Some Secrets of Successful Rowing』より)。 また、「runner’s high」もボートの楽しさである。マラソンで2000m位走るとアドレナリンが出て一種の恍惚状態に陥り、何mでも走れるようになる。ボートでもある距離以上漕ぐとあとは平気で幾らでも漕げるようになる。
◎底辺の大きなピラミッドを築こう:私が対校選手の時に「対校選手はピラミッドの頂上だ」とよく言われた。 一橋には強くなって貰いたいと思っている。いかに有望な新人を獲得するかが、次の時代のボート部の命運を分ける。それと同時にピラミッドを大きくすればするほど、頂点は高く、堅固な物になるはずである。四神会員の下支えと同時に、裏方さん達現役のマネージャーの尽力も不可欠である・。
◎強いクルーのいる艇庫は整理整頓も行き届いています。来客にはたとえ他校の先輩にもきちんと挨拶をしましょう。
ボート生活で心に残った言葉
〇日本に漕艇を初めて紹介した英国人J.ステインゲルの言葉
「スポーツの効用は精神の鍛錬にある、筋骨の鍛錬はその副産物に過ぎない」
○慶應義塾大学 小泉信三先生の言葉
「潔い敗者たれ、果敢な闘士たれ」
負けたときは潔くふるまえ!(good looser)
勝者は敗者の前で「はしやぐ」のはみっともない、 勝者は敗者を労われ(well row!よくやったねというように)
〇アメリカの大リーグ名監督・エリックの言葉
「勝つことが全てではない。しかし勝たなければならない」
〇昭和24年、一橋ボート史上最弱クルーと言われた時代に、宮田勝善(慶應OB、毎日新聞、東商戦審判長)が新聞紙上で土手評の最後に述べた言葉
「大廈(たいか=大きな建物)の顛(たお)れんとするところ、よく一木の支えるに非らず」
一橋は、若手のOBがもっと結集して困難に対処すべきだ、と言われたが、どの運動部にもその時々で浮き沈みがあります。
その時には、それこそ四神会はじめボート関係者全員の力を結集して強化に取り組みましょう。「朝の来ない夜はない」
〇向島一橋艇庫2階のH組合宿所の壁に大書して書かれてあった言葉
「DRUTH LEIENN FREUDEN」(苦しみの後の喜び)
シートそれぞれの役割と適性-エイトの場合―
COX | 船の上の帝王。船から上がったら召使い。「ありがとう」は、船が停止している時自分の代わりに方向を直してくれた漕手に「ありがとう」と言う。 |
整調 | 音楽のセンスがあり、リズム感が取れる、 一定のリズムで漕がねば後ろの皆が疲れてしまう。 |
#7 | 艇の要、 標準の人かつベテラン。 クルーの力量は7番を見ればわかると言われる。 |
#6~3 | エンジンとして船の推進力を担う。新人は3,4番、ベテランは5,6番。 |
バウペア | 体重が軽い。元気があり、ピッチの上げ下げを後ろからできる人。 起き上がりが敏捷な人。私はバウだったので、人一倍腹筋を鍛えた。 |
感想
行木さんのボートにかける思いや情熱に圧倒されるばかりでした。戦後の厳しい時期を乗り越え、何十年もボートに関わってこられた行木さんの視点からとらえた「ボートの魅力」を知ることができ、自分がボート部の一員であることをより一層嬉しく思えました。同時に、現在のボート部がいかに恵まれた環境にいるかを痛感しました。
「人のために、世の中のために何をしてきたかということこそ、人間の価値だと思う」という言葉が印象に残っています。地域の子供たちのため、社会のため、ボート発展のため尽力されてきた行木さんだからこその言葉の重みが感じられました。(室井智絵)
行木先輩、ありがとうございました。
(文責:室井智絵)