- プロフィール
- ボート部に入ったきっかけ
- 当時のボート部の生活
- 東商戦の思い出
- 主将として
- 部史編纂事業について
- ボート部以外の学生生活
- お仕事の内容
- ボート部が人生にどんな影響を与えたか
- 現在のボート部へ
【櫻井安彦さんプロフィール】
氏名 | 櫻井安彦(さくらい やすひこ) |
生年月日 | 1932年(昭和7年)11月14日 |
出身地 | 東京都 |
出身高校 | 東京都立青山高校 |
入学年 | 1951年(昭和26年) |
卒業年 | 1955年(昭和30年) |
学部 | 経済学部 |
ゼミ | 久武雅夫ゼミ |
HCS | S組 |
勤務先 | 第一銀行(現:みずほ銀行) |
端艇部での役職 | 主将 |
【ボート部に入ったきっかけ】
ボート部に入ったのは、1年生の10月か11月頃、全日本後のことだった。
たまたま向島の艇庫に遊びに行って、いきなりペアを漕がされた。ボートを漕いだのはその時が初めてだった。そこで入らないかと誘われて、入部を決めた。自分と同じく一橋出身の父の仲間にボートマンがいたので、多少憧れもあったかもしれない。また、漕いだ時に楽しいと思ったからというのもあるだろう。
こうして1年の秋に入部し、2年の春にジュニアエイト、夏からは対校に乗った。先輩が怪我をしたので、コーチに「お前が乗れ」と言われて乗った。自分の漕ぎはあまり上手かったとは思えないけれど、唯一の2年生としてインカレに2番で出漕した。
【当時のボート部の生活】
周囲の仲間からは「ヤス」と呼ばれていた。仲の良かった児島章郎さんは「坊や」、一つ上の栗原恒雄さんは「バラモン」など、色々なあだ名の人がいた。兵隊帰りで入った人もいたので、同期に3~4歳違いの人もいた。とはいえ上下関係はフリーで、部員同士の仲も良かった。その雰囲気は一橋ボート部の伝統だろう。
また、当時は今のように種目が多くなく、対外レースにはエイトとフォアしか出ていなかった。100人くらい部員がいても、選手はエイトの9人とフォアの5人、それに補欠が1?2人、それだけだった。あとの部員はみんな飯炊きなどをしていた。
対外レースのほかは校内大会があったが、特に秋のHCS小会の時は対校選手が飯炊きをし、その他の選手が中心となってレースに出ていた。全日本後、10月頃から3?4ヶ月の間はそのような体制になり、その間対校選手はコーチ的役割を担っていた。
食事をしたあとのお皿は基本的に自分で洗っていたが、最後の一人になるまでジャンケンをして負けた人が全部洗うということもしていて、盛り上がった。当時のボート部での一大イベントだった。
【東商戦の思い出】
2年の時に東商戦のジュニアエイトが始まり、2番で出漕した。その後、対校エイトに乗った。3年の時が4番で、4年の時が6番だった。
結果としては、3年の時には勝ったが、主将だった4年の時は負けてしまった。
当時の東大は強かった。だからこそ、3年で数年ぶりに勝った時(第5回東商戦)は大騒ぎだった。向島から永代橋まで6800mのレースは長距離できつかったが、3日に1度はそのコースを漕ぐ練習をしていた。
また、これは負けた時のことだが、大会委員長の東大総長・矢内原忠雄さんの訓示が印象に残っている。「学問というのは真理に対する直観を養うことです」というフレーズ。とても感銘を受け、なぜか今でも頭に残っている。
【主将として】
自分が主将になるということは、推薦や選挙があったというわけでもなく、何となく流れで決まった。コーチと相談しながら、誰がどの艇に乗るかということも決めていたが、これに関して主将としての反省がある。翌々年のオリンピック予選に向けての若手の育成のため、東商戦のあとにベテランを降ろして若手を乗せたことだ。その結果、チームの力が弱くなってしまった。学生スポーツとしてはやるべきではなかった。その時のベストで勝負するべきだったと反省している。
【部史編纂事業について】
卒業した年に、「ボート部の歴史を作らなければいけない」という思いから、部誌の編纂を始めた。
村松祐次先生(当時の端艇部長)に推薦状を書いていただき、部誌を作りたいからと菅礼之助さん(後の東京電力会長)のところにお金をもらいに行った。菅さんは10万円(今の1000万円程)寄付してくださった。また、足立正さん(後の日本商工会議所名誉会頭)は5万円(今の500万円程)くださった。
同期の金秀太郎さん、後輩の中川学さん、丸磐根さん、現役の学生10人ほどとともに、上野の図書館で新聞記事を集めた。明治の初めから、一橋に関係のないものも含めボートに関する記事を全て探し、手書きで書き写した。それが部誌の一番初めに入っている。
また、いただいたお金で大きなテープレコーダーを購入し、それを抱えて先輩方のもとへ訪ねて行き、インタビューを行うこともあった。主に学生中心の活動ではあったが、おそらく10人以上は行っていただろう。
それらを集めてできたのが、現在残っている部誌編纂資料集。半年ほどかけて作成した。全部で4冊あるが、途中で終わってしまっている。
当初の予定では、作った資料集を売り、そのお金を次の資金に充てようと考えていたが、なかなか売れなかった。また、それぞれ仕事の転勤等もあり引き継ぎができず、その続きを作ることができなかった。ただ、初期のところは集められたので、最初の目的を達成することはできたと思う。
【ボート部以外の学生生活】
ボート部以外の学生生活は考えられない。ほとんど勉強はしていなかった。向島から国立まではおよそ1時間半かかるため、遠くてとても行けなかった。試験前になると、同じ科目を取っている5人くらいの中に1人は出来る人がいたので、前の晩にその人がヤマを掛けてみんなで勉強した。それが当たるとみんな通ったが、外れると出来る人以外みんな落としてしまった。
ただ、ゼミの勉強だけはしっかりやった。ゼミは久武雅夫先生という数理経済学の有名な先生のゼミだった。久武先生は、「これで卒論を書きなさい」とテーマを与えてくださったが、そのアメリカのケネス・ジョセフ・アローという経済学者が後にノーベル経済学賞を取ったことには驚いた。
【お仕事の内容】
就職活動にあたっては畑弘平さんに助けていただき、推薦状を書いてもらうようなこともあった。本当は機械などのメーカーに行きたかったが、当時メーカーの試験は時期が遅かったので、駄目元で早い時期の第一銀行を受けたところ、合格した。就職難の時代だったので今のように内定を複数持っているというようなことはなく、受かったらそこに行くことになっていたので、第一銀行に入ることになった。受かったのは久武先生のゼミの影響もあるかもしれない。
第一銀行では、営業職として働いた。関西に3回ほど行き、その後は東京と行ったり来たりしていた。しかし、仕事内容は今の銀行の仕事とはかなり違っていたと思う。近年の銀行は画一的で、個人の力が発揮できるような職場ではなくなってしまったように感じる。以前はもっと自由度が高かったと思う。
また、従業員組合の委員長を1年間務めたが、その時に別の大きな銀行との合併の話を潰したことがある。当時第一銀行は、3~4の大企業における主力銀行だった。もし話があった銀行と合併すると、相手はそれらが全て手に入ることになる。それではたまらないということで、第一銀行側は反対する人が多く、大株主である取引先企業も反対していたため、この話は一週間で潰れた。
ただ、組合は経営そのものに口を出すべきではないという立場だったので、この件に関しては中立だった。従業員の労働条件が不適切なものにならなければ、それはそれで良かった。組合の委員長という仕事は、何かあれば腹を切る覚悟も必要な責任の重い仕事だった。また、この時はボート部での豊富な人間関係の中で養った「人間を見る目」が役に立ったと思う。そのおかげで、どのような人が頼りになるかなどが分かった。
【ボート部が人生にどんな影響を与えたか】
一言では言い表せないが、ボート部では「精神力」の面でとても鍛えられた。そして、前後左右の人間関係を築くことができた。特にボート部にはHCS制度のおかげで膨大な縦のつながりがある。ボート部にいなければ、このような世代を超えた出会いやつながりはなかっただろう。これはとても貴重なものだと感じる。
また、当時の端艇部長だった村松先生からはかなり人間教育を受けた。先生から教わったことは自分自身にとって代えがたい宝となっている。特に、引退して卒業するまでの間に、村松先生が学生4?5人ずつを京都や奈良に連れて行ってくださったことが思い出に残っている。
今はそのようなつながりはあまりないと聞くが、指導教官と学生はそういった人間的なつながりがあって然るべきだし、学生の生活全体の質を高めるのが指導教官の役割だと思う。そのような付き合いがあるということが、一橋の特色でありメリットであったはずだ。
何か困ったりした時には、やはりボート部を続けていて良かったと思うことがある。たとえば、組合の委員長をしていた時、「あの時あれだけ苦労したんだからこんなことは大したことないや」と思えて頑張ることができた。ボート部での苦労が、何があっても平気だと思える根っこみたいなものになっている。
【現在のボート部へ】
現役部員は、一橋ボート部としての誇り、「自分たちが一橋のボートマンだ」という誇りがあって良いと思う。「自分たちが一橋ボート部の伝統を支えているんだ」という思いが大切。伝統とは「古い殻を破る力」だと思うが、それを支えるためには今のままで良いのかどうか、考えてみてほしい。
自分たちも、何のためにボートを漕いでいるのか、悩みながら卒業していった。それがわかるのは、卒業してからだと思う。今は自分がやっていることを一生懸命やれば良い。
また、ボートを通して先輩の慧眼に接するということを、学生はもっと考えた方が良いと思う。OBにとっては学生が訪ねてくるのは嬉しいこと。学生はもっとOBに甘えて、色々な話を聞くべきだと思う。
ボート部に入って良かったと思うのは、卒業してから20~30年後。部活をやり遂げた自信みたいなものは社会生活の最初はなかなか気が付かないけれど、あとになってから「やっぱりやっていて良かった」と必ず思える。そのような意味で、若い学生には「頑張ってやりなさい」ということを、自信を持って言える。
【お話を聞いて】
対外レースに出場していたのが14名ほどだったということには驚きました。その中でも、対校選手とそれ以外の選手がそれぞれ別の時期に飯炊きをして互いを支えていたというお話には、今に通じる「チーム一橋」の精神を感じました。
また、「いつか必ずやっていて良かったと思える」という櫻井さんのお言葉はとても心に響きました。年月を経て改めてそのように思える時を楽しみにしながら、一橋ボート部員としての誇りを胸に、今後も精進していこうと思います。(神山亜沙子)
櫻井先輩、ありがとうございました。