- ・プロフィール
- ・大学でボートを始めたきっかけ
- ・堀江さんのボート部での活動
- ・当時のボート部
- ・ボート部以外の学生生活
- ・会社に勤めてから
- ・現役部員へのメッセージ
第8回は、昭和27年卒の堀江 昭さんです。
堀江 昭さんプロフィール
氏名 | 堀江 昭(ほりえ あきら) |
生年月日 | 1929年(昭和4年)2月11日 |
出生地 | 東京都下谷区金杉一丁目、昭和7年に中華民国に移動 |
出身高校 | 旧制湘南中学校 |
入学年 | 1946年(昭和21年)東京商科大学商学専門部 |
卒業年 | 1952年(昭和27年)東京商科大学 |
ゼミ | 専門部 熊野正平ゼミ 学部 板垣與一ゼミ |
HCS | H組 |
勤務先 | 三菱商事 |
主なポジション | バウ H組会計幹事 |
大学でボートを始めたきっかけ
1946年、戦後まもない混乱の時代に、あこがれて一橋に入学したが、どこか物足りなさを感じていた。何かしっかりしたもの、全身全霊で打ち込めるものを求めたいという思いから、体格の小ささも気にせず、ボート部入部を志願した。入学時、中和寮にいたボート部の先輩から「一橋のボート部は伝統があり、良い先輩がたくさんいる」という話を聞き、また、クラスチャンで漕いだ経験のある一橋卒の父からもボート部の評判を聞いていた。体力面でも精神面でも成長でき、大学でも中心となっている部であったため、素晴らしい先輩方に学びたいと思っていた。この入部こそ自分の転機であり、ボート部のおかけで今日の自分が存在すると思っている。
堀江さんのボート部での活動
専門部1~3年の3年間、活動していた。クラスチャンの時点では既に入部しており、コーチを担当した。バウを漕いでいたが、入学時からアメリカ留学を目指していたため、ボートと学業とを両立させながら活動をしていた。専門部後半にはマネージャーとして、OBを訪問して行う部の資金集めを主に行い、大学ではH組の会計幹事も務めた。学業の合間を縫ってOBのおられる各社を訪問したが、会社の業務について広く知ることができ、また、先輩からためになるお話を聞くことができて、とても良い社会勉強になった。先輩方が一生懸命働き、社会で活躍していた姿は強く印象に残っている。 専門部卒業後、本科3年のうちの最初の2年間は、H組先輩の寺尾一郎さんの会社「都商事」で、週の半分ほど勉強・生活費のためのアルバイトをしていた。「都商事」は、三菱商事が解体され分散されたうちの一社であり、具体的には倉庫の会計管理の手伝いをした。 本科3年目になると部の会計幹事を依頼されたが、米国留学試験の準備に尽力するため、同期の小林伸夫君・君塚克美君に会計幹事・代表幹事をお願いした。引き受けられなかったのは申訳なかったが、2人がしっかり幹事を務めてくれた。フルブライト留学試験に合格して2年間米国に留学することが出来たので、万々歳であった。 HCS大会の後のコンパで、「ブイの片付けなど、最後まで後始末や片付けをよくやってくれて、ありがとう」といった言葉を、寺尾一郎さんがかけて下さったことが印象に残っている。それが、尊敬する寺尾さんを存じ上げるきっかけでもあった。今でも、先輩にはとても恵まれていたと思う。 現在でも、月1回数人のOBで集まってボート部の近況を聞いており、競漕大会もできるだけ観に行っている。
当時のボート部
午後の練習時間を全体で決めて、それに合わせて授業に行ったり行かなかったりしていたため、部員にとってやはり勉強は二の次になっていた。艇庫での食事は、1年先輩の畑弘恭さんたちが調理をしてくれていた。お米が手に入らず、とうもろこしの粉をパン焼き器で焼いたものが多かったが、無理してお米を集めた時は薪で炊いていた。その薪の調達のために、隅田川をフィックス艇で漕いでお台場まで行き、倒壊している家屋から木材をもらい、船に積んで艇庫まで運ぶ、ということもしたことがあった。 練習としては、漕艇の他にバック台・土手のランニングなどで体力をつけていた。私は漕ぐよりも走る方が得意で、ランニングでは誰にも負けなかった。レースの前は艇庫に泊まり込み、他は主に自宅か中和寮から通っていた。
ボート部以外の学生生活
父は横浜正金銀行に勤め、世界を飛び回っていた。私は東京で生まれたが、小学生の時は父が天津の支店長を務め、5年間家族で天津に住んだ。そういった父の影響を受けたり、グローバルな環境で育ったりしたこともあって、海外に行きたい、国際的な貿易や交流を推進することで国際平和や発展に貢献したい、という思いがあった。そのため、当時できたばかりであったフルブライトの奨学金やアメリカの大学の留学制度を用いて、アメリカへ留学することを目指した。そのため、大学時代は試験に向けた英語の勉強にも励んでいた。 ゼミでは、板垣與一先生の下で国際経済を学び、シュンペーターなど英語の書籍を読んだ。卒論作成においてはアルヴィン・H・ハンセンの本を全訳した。戦後、進駐軍の図書施設が利用できるなど、英語の本や雑誌を気軽に読める環境は整っていた。 当時の日本と米国とは大きな格差があり、多方面で豊かなアメリカが日本に及ぼす影響は多大であった。そのため、英語の勉強の必要性を強く感じており、ラジオや通訳者養成講座を利用して勉強していた。艇庫では、机がなかったので寝床で勉強していた。早くから英語の習得に努力したのが良かったと感じる。
会社に勤めてから
1952年、財閥解体により三菱商事が分散されたうちの1社である協和交易にボート部の畑弘平先輩を頼って入れていただいた。フルブライト留学生試験に合格したので、入社3ヶ月後にアメリカへ留学し、1954年に帰国すると、大合併により新三菱商事が生まれるタイミングであり、発足と同時に紙パルプ部で働き始めた。その際、三菱商事ボート部も誕生した。私は社内大会や対抗戦に出漕したほか、コーチとしても活動し、漕ぎ手集めに苦労することも多かった。社内大会は人間関係を広げる良い機会ともなり、社内融和に大きく貢献していた。現在も盛んであるが、今後もぜひ続けていってほしいと思う。 結婚については、相手を探していたとき、畑先輩に御相談したところ、結婚相手を紹介していただき、それもうまくいった。勤務地として、バンクーバーやニューヨークなど、世界各地に行った。ボート部では、海外を含め各地の大会へ出場した。そして1980年には、会社のボート部長に就任した。2000年代になりボート部史を発行する企業が増えていったことを受けて、三菱商事においても50年史を発行しようと考え、OBに声をかけて編集の組織作りを行った。そして2004年に、大変だったが、「三菱商事ボート部 50年の歩み」を発行することが出来た。現役時代だけでなく商事ボート部での活動においても、一橋で対校エイトバウペアを漕がれた畑先輩や、寺尾先輩はじめ沢山のボートの先輩にはご指導ご援助を頂き、大変感謝している。
現役部員へのメッセージ
英語を学ぶことは必要であり、将来必ず役に立つだろう。また、視野を広くして、現在世界でどのようなことが起こっているかを知ることも大切である。 一橋大学、そしてボート部に在籍し、経済的にも恵まれた環境の中で時間的な余裕のある学生生活を送るというのは、大変幸いなことである。様々なことを学べるそのような環境を十分に利用して、先生や友人の話を聞き、人の書いた本を読み、学業においてもボートにおいても毎日真剣に活動に取り組んで、様々なことを吸収していってほしい。そうして学んだことを自分なりに解釈し、次に繋げていくことで、いずれは自分の生きる道を見出していくことができるだろう。ぜひこれからも勉強する気持ちを失わないでいってほしい。
お話を聞いて
戦後という時代の中で自ら学び、吸収し、道を開いていく堀江さんの生き方からは、多くのことを学びました。また、お世話になられた先輩のためであったり、人生の転機を作ったボート部のためであったり、世界の発展や平和のためであったり…対象は様々ですが、堀江さんは「貢献」することを大事にされていました。何もかもが恵まれている現代の私たちだからこそ、貪欲に学ぶ必要があり、そうして得られたものを通じ人や社会に貢献していくことこそが、自分の人生をも豊かにするのではないかと感じました。(室井智絵)
堀江先輩、ありがとうございました。
(文責:室井智絵)